玄霧の民

                      .人の。  .変容の性質とその背景  .一人ではない  .玄霧の民   
 



 人を人足らしめるものとは何か。
 それ即ち、願いである。

 人が過ちを犯すその起源とは何か。
 それ即ち、願いである。

 人が善を成しえるのは何故か。
 人が願いを抱えて生きているからである。




 人の持つ願い、それは生まれついて持ち合わせたものと、育った環境によって植えつけられたもの。
 受け継がれてきた文化と重ねてきた経験、そして生物として持ち合わせる生理的な欲求が絡み合い、
交じり合って形になるものである。

 人の業、それは自らの抱いた願いを元にした行動のことを指す。
 当然、自らの行動によって生じる、(善悪・好悪を問わない)ありとあらゆる結果についても、自らの業の一部として考える。

 人とは、迷い悩み、幾度も揺らいだり折れたりしながら、自らの願いに従って生きていく存在である。
 よって、人の人たる由縁とは、自らの業から目を背けず、深い思慮と共に受け入れて歩んでいく事を指すのだ、といえるだろう。

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 玄霧藩国は森国国家である。
 高位森国人はいないので、昔と変わらず、普通の森国人ばかりが見られる国ではあったが、
さりとて特徴がない訳ではなく、長い歴史と共に、(職業などとは別の意味で)他の森国国家と微妙に異なった変化を遂げてきている。

 とはいえ、その変化はさして大きいものでもないのだが。
 元々、高位森国人が出る事もなく、森国人のままずっと暮らしてきた種族であるし、
家庭の味が根強く存在する文化であることもある。恒常性が高い国民性であると言うことも出来るか。

 大雑把に見て、森国人よりも各種能力の向上が見られる。
 身体能力、運動能力面での強化はというと誤差程度でしかないが、精霊文化の浸透と、、
それによって、魔法・精霊との交感において、適性が伸びている点は、わかり易い特徴と呼べるだろう。

 精霊、森羅万象に宿る命の光。
 それを敬い、共に響きあいながら生きてきた玄霧藩国の民は、暮らしの中で精霊とどう接するかを理解して育っていくため、
自然と、精霊との親和性が高くなっており、魔法の行使や、精霊の力を借りた治療に優れた才能を持つとされた。
 精霊を敬うという事は即ち、精霊を道具として使役する絶技の行使など以ての外という事であり、
また、精霊と融合したり、同一化しようとする動きに対しても、カウンターとなる思想である。
 共に生きる隣人であるからこそ、力を分け合えるのであって、一方的に搾取する関係であってはならないし、
完全に同じ存在になっては、隣人として一緒に生きている意味はない。
 魔法的適性の向上も、さして大きく伸びている訳ではないのもあって、過去から現在までの流れから、大きく逸脱する様子はなかった。

 その他、変わった点としては、平均身長が伸びたことと、それとは逆に、体脂肪率の低下が見られた事が挙げられるだろうか。

 各家庭での食料消費、つまり食卓に並ぶご飯の量で見ると、こちらは増加傾向にあり、
お料理教室の普及による調理技術の向上は、国民の健康にもよい影響を与えていると見ていいはずだ。
 美味しいご飯を食べるのは、嬉しい。楽しい。それだけで気持ちも明るくなる。
 体脂肪率の低下は、貧困等によるものというより、健康面を考えた献立の普及によるもの、と考えてもいいのかもしれない。
 栄養面の改善によって平均身長が伸びている、と考えることもできるだろう。

 また、噂話の範囲として、全般的に国民の耳が過去より更に尖ってきている、という話もあることから、
(森国人の)種族的特徴が際立ってきているのではないか、という説もある。
 とはいえ、過去三十年における平均身長の推移を見ても、伸び幅は10cmに満たないので、さして大きな変化ではないと言えるだろう。

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 あくまで第三者から見た認識として、玄霧藩国の民は、独立心旺盛であり、自立意識が強い民族であると考えられる。
 独立心の強さは、自らの決定を曲げずに推し進める傾向を強め、また、自身の居場所というべき場を大切にする事に繋がる。
 玄霧藩国の民が、(国民全般を見て)やると決めたら徹底して行なう事、仲間意識が強い事、
家族と認めた相手を大切にする事などは、その裏づけとも言えるだろう。

 しかし、これまでの歴史上、玄霧藩国の民が幸せを謳歌できていた期間は、そう長くない。
 それはつまり、国民の気質と国政、または情勢が、すれ違い、噛みあっていなかったという事実を指し示す。
 上手くいっていないのだ。

 大抵の場合、人は、上手くいかなければ悩んだり、考え込んだりする。自分でどうにかしよう、という傾向がつよければ尚更である。
 ただ、考えれば改善するというものではない。そもそも、一人で幾ら考えても、堂々巡りに終わることはよくある。
 逆に考えないで行動したほうがいい事だって多いだろう。
 しかし勿論、考えなければどうにもならない事も沢山ある。

 そして、一人で考えてダメなら、複数人で考えればいい。
 玄霧藩国民の自立意識の強さは先に述べた通りだが、同時にそれは、仲間意識の強さの表れでもあった。
 仲間がいるなら、相談して意見を貰うことが出来る。自分の意見と違うなら、それは認識をすり合わせればよい。
 他にも精霊という大切な隣人がいる。彼らは常に身近な存在でありながら、明確な他者であるから、
(会話は成り立たないが)相手の気持ちを想像して行動する上で、いい参考になる。
 風の気持ちを、森の気持ちを考えてみる、というのは、発想の転換材料として、丁度よいと言える。

 例えば、最も親しい相手と話し合うでもいいだろう。
 木々に宿る精霊に思いを馳せて、彼らならどう考えるだろうか、と想像してもいい。
 そして、食卓を囲みながら家族に悩みを打ち明けるのもありだ。

 独立心が強い、というのは、決して孤独である事を指し示したりはしない。
 個があるから他が認識できるのだ。自身と他者が異なるから、わかりあう事もできるだろう。
 これまで上手くいかなかったのが事実でも、これからも上手くいかないかどうかは判らない。
 過去の失敗を忘れるべきではないが、失敗に囚われてもしょうがない。経験は糧であって、心を縛るためのものではないのだから。

 願いがあるから悩みもする。そこから生まれる行動によって結果が発生し、
それが好ましいものならば喜べる。良くないものであれば悲しむだろう。
 それら全ての業を背負って生きていくのが人の姿ではあるが、しかしその時、人は誰も、一人ではない。

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 玄霧藩国の民は森国人と呼べる人種である。
 しかし、昔と今では幾らか違う。
 姿形は大差ない。能力は幾らか強くなった。
 心は……どうだろう、少し変わったかもしれない。隣人とは近づいた気がする。

 そして行く末は、まだ決まっていない。
 だから、その種族の名を、ここに『玄霧の民』と呼び、その歩む先の幸せを強く祈る次第である。

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作成:玄霧藩国
文章:階川雅成
イラスト:千隼
ページデザイン:アポロ・M・シバムラ

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